『夏の花・心願の国』


原民喜著『夏の花・心願の国』 (新潮文庫)

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 物語る言葉の説得力を巡らせて、魅せられながら、何度も苦しくなった。一つの死があり、無数の死があった。いつまでもこだまする死者たちの嘆きに貫かれて、生き残る者の苦しさがあった。見つめ、生きてきた記憶、経験の凄まじさを思う。読みながら思わず目を覆いたくなるほどの変わり果てた光景が鮮明に伝わる。呻き声が近く聞こえるような心地さえした。原爆という事実があまりにも惨く、重くのしかかる。救いを求めながらも、目を背けずに書く、死の重みや生の深みを背負う文章に圧倒された。それでもなお続く苦しさを、言葉の重みを改めて思う。

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夏の花・心願の国 (新潮文庫)


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『幸福へのパスポート』


山田稔著『幸福へのパスポート』 (講談社文庫)

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 見つめた光景やそこにある感情、人物たちの表情がつぶさに感じられるようで、面白くもときに苦く、始終様々に魅せられた。留学先で日本から逃れようとも、思わぬかたちで自分の内部に日本があると知る出来事が印象的だった。そうやって異国の人混みに立つために、何かを失いながら、自分の欠落を取り戻そうと、自分に課すように足掻きに似た努力を続けてきた心に打たれる。人との出会いに対する密かな期待と、他者から心を閉ざしたくなる思いが両方あるところに人間味と親しみも抱かせた。叶わなかった再会は、限りある生を改めて思い、じんとくる。

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幸福へのパスポート (講談社文庫)


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『草の花』


幸田文著『草の花』 (講談社文芸文庫)

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 回想が鮮やかであるほど、重くのしかかる思いがあると感じた。基督教系の女子校という環境に刺激されてゆく思春期に、一つ一つどこか懐かしく思い返すように愛しく読みながら、今なお奥底に重く抱えた少女期の戸惑いや心象風景が、心にざらりと何かを残してゆく。決して明るくはなり得ない若い愛のかたちがある。何かをしたいと思っていても、それをはっきり掴めないもどかしさがある。若さという恢復力をもっていても、痛いものは痛く、つらいものはつらい。言葉にできる鮮烈ばかりがすべてではないと思えばこそ、語られた文章を抱きしめたくなる。

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草の花 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)


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『嵐』


ル・クレジオ著『』 中地義和訳 (作品社)

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 生きてきた歳月と、これから向かう人生とを思う。疎外感を抱えながら生きる父親を知らぬ少女と、過去の罪や癒えぬ記憶を抱えた男が、それぞれの思いを互いの姿に重ねてゆく。老いを感じ始めている男と、まだ人生の始まりにいる少女の繊細で純粋な大胆さの対比が、二人の共鳴をいっそう儚く切ないものとして心揺さぶった「嵐」。幼き日々からの長く苦しい流転の果てに、アイデンティティーを回復してゆく語りの濃密さに強く惹き付けられた「わたしは誰?」。やがて新しい自分の物語に踏み出そうとする姿は、静謐な美しさを湛えているようだった。

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『隔離の島』


J・M・G・ル・クレジオ著『隔離の島』 中地義和訳 (ちくま文庫)

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 自分のルーツとして、知るべき人々と出来事が在る。今となっては知りようもないことも含め、語りが重なり、交錯するほどに、痕跡を辿るべく在る一つ一つが、読み進めてきたこと自体かけがえのないもののように大切に感じられた。実際の話をもとにしながらも、夢見られた物語であることが何とも切なく胸締めつけた。始まり、隔離という状況下、ジャックとレオン、異文化の中の恋、ランボー、移民たち。疑似的な郷愁でも、忘れてはならないものが在る。それぞれを結び合わせ、一つにする。失われたものを取り戻す瞬間にふれようとする切実が心を打つ。

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隔離の島 (ちくま文庫)


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『野性の呼び声』


ジャック・ロンドン著『野性の呼び声』 深町眞理子訳 (光文社古典新訳文庫)

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 在るべき生の姿をはっと見つめる読書だった。描かれるバックの避け難く苛酷な生の変遷は、経験だけでなく、本能の疼きからも一つ一つ学び、身につけ、外面的にも内面的にも命が活気づくように、やがて本来の自分となる過程をつぶさに伝えてくる。太古からの苦しみを帯びる歌、惹きつけて止まない声は、何とも神秘に満ちて、生きることの悲痛や苦しみ、犬という種族を魅力的に感じさせるようだった。純粋な生のうねりとしての陶酔感、憧れ、辛抱強さ、自分への誇り。人間にも、その要求にも束縛されることのない生を選ぶ在るべき姿に魅せられていた。

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野性の呼び声 (光文社古典新訳文庫)

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『静かな生活』


マルグリット・デュラス著『静かな生活』 白井浩司訳 (グーテンベルク21)

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 人の放つ静けさには、押し殺した感情が幾重にも在るのだと、苦しいほどに思う。待ち続けた結果起こった必然を知れば尚更、生活の内情を知る怖さを思う。時とともに積み重なった無秩序と倦怠がある。諦念とひそかに抱く期待の狭間で、自ら引き裂き、招いてしまう死。何者でもなく、ここにいることを選んでもいないと気づく時、違う自分になれたかもしれないが、どうしようもなく自分でしかないと知らされる。人は忘れながら、虚ろに、倦怠によって生きることができてしまう悲しさがひたひたと刺すよう。物語は人の心の内奥をついて、始終魅せ続けた。

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静かな生活


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『木』


幸田文著『』 (新潮文庫)

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 木を深く見つめ、寄り添うように知ろうとする思いに感じ入る。倒木に生の姿を見る。生々しいほどの輪廻も、無惨も、猛々しさも隠さずに、ひたすら生きようとする姿、生死の継目として新しくある木を目の当たりにする文章は、文字だけでその生のぬくみの鮮烈を伝える。ものを言わず、慎み深く生きる木に寄せる思いは切なく、著者の抱く感傷が周囲に受け入れられなくとも、見つめる先に感情を持つからこそ、一つ一つが確かな重みとして心に響いてきた。時間をかけて四季を見届け、訪れてこそ感じられる木々の姿、その生の重さを語る文章に魅了された。

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木 (新潮文庫)


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『一九八四年』


ジョージ・オーウェル著『一九八四年』 高橋和久訳 (ハヤカワepi文庫)

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 悪夢を見た心地になる。過去、今、未来、遠くにも近くにも物語が在るのを感じた。歴史を思えば近い熱狂が何処かにあり、今を見ても薄らと通じることが思い浮かぶ。読み始めて他所事でない思いが少しでも浮かんでしまうと、物語は起こり得ることとして、空恐ろしく心を刺すように感じられた。苛酷な状況下では、いわば最後の砦のような心の内奥までも、権力の下では侵されてしまうことが、ただただやるせない。人間の存在はちっぽけながら、全体として集うと流される。恐怖と憎悪と残酷の中、絶望にも愛を抱く哀しさがある。未来に孕む危機が過った。

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一九八四年 (ハヤカワepi文庫)


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『みそっかす』


幸田文著『みそっかす』 (岩波文庫)

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 鮮烈な記憶が胸を打つ。幼き心がとらえた瞬間や思いは、刻まれた分だけ深く根を下ろしている。父の姿、継母の姿、そこにある関係、放ち放たれ、向けられた言葉の重さは、幼き心だからこそ余計に傷つきもする。それでいて振り返る記憶は、大人もまたそれ以上に傷つき、深く悲しみ、世間に晒されていたと語る。言葉には子ども心のままの苦悶、もどかしさがある。言い難い苦しみを経験しながら、苦労をかけたと言える心と時の深さを行間に感じる。一つ一つのエピソードの鮮烈に掴まれ、はらはらと心締めつけられつつ、幼き日を懐かしく愛しいと思った。

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みそっかす (岩波文庫 緑 104-1)


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『燃える平原』


フアン・ルルフォ著『燃える平原』 杉山晃訳 (岩波文庫)

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 乾いた一切無駄のない文章で綴られる17の短編は、それぞれに心の奥深いところに直接迫りくるようなリアリティがあった。荒涼とした情景を背景にしていながらも、人の意識に届く普遍的な部分が物語に見えるとき、その無情、その虚しさ、その悲しさのうごめきに圧倒され、はっと息を呑むのだ。祈ることしかできないような、それすらも無為に終わるような、けれどそうすることしかできないような「タルパ」に描かれる人々には、とりわけ引きつけられた。死ぬまで繰り返される日々の中で、死だけがただ1つの希望となるような「ルビーナ」も印象深い。

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燃える平原 (岩波文庫)


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『ペドロ・パラモ』


フアン・ルルフォ著『ペドロ・パラモ』 杉山晃・増田義郎訳 (岩波文庫)

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 誰もが向かい、やがて行く先をはっと思うほどに物語が何とも切なく沁みてきた。既に死の中にありながら、自分の死を辿る。とりとめのない音や人の声が浮かんでは消えようと続く、囁き合う断片は、人がやがて死す運命にあることを思えば、誰もがいつかは辿る生と死を巡る物語に感じられた。抱える人の罪も、時とともに消え去るとは限らない思いも、それぞれの死も、一つ一つが、自分のその日までに受け入れる過程だと、苦しいほどにじんときた。気がつけばぐるりと始まりに立ち返るべくある見事な物語の円環、避けられない彷徨は皆、重く感じられた。

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ペドロ・パラモ (岩波文庫)

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『言葉の木蔭 詩から、詩へ』


宇佐見英治著、堀江敏幸編『言葉の木蔭 詩から、詩へ』 (港の人)

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 のこる言葉の重みをただ噛み締めていた。戦中歌集にのこる言葉の鮮烈、ジャコメッティと交わした言葉の一つ一つ、見知らぬ彼を発見する新鮮な歓び、ヘッセの繰り返す言葉の深み。先人たちの言葉に打たれ、歳を重ね、出会った人々も心から尊敬した人も死んでしまったと書く文章はずしりと重い。思えば、生きている人間よりも死者の方が遥かに多いという気づきもまた。自筆略年譜を読む興味深さは尽きないが、少年時代の経験から、無意識に使う言葉への敏感な心に感じ入る。辞世の句に見る、生き貫く言葉。言葉の重みは、貫かれた生そのものに思えた。

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言葉の木蔭 詩から、詩へ

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『萱草に寄す』


立原道造著『萱草に寄す』 (青空文庫)

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 読み返したくなる言葉がある。すべての言葉が掴めなくとも、心は確かなところで揺さぶられていた。ひとよ、と放たれる言葉には心があった。悲しむことも憤ることも、それを直接言葉にすることを躊躇う思いを感じる。視線は優しさをとらえ、心と言葉を押し込める。追憶の夢語りは儚くも、それを思い出す心は深い。あの日を語るときの自分と今の自分の狭間で、静かに諦める思いを言葉で読むとき、何だか胸締め付けられる心地になる。忘れていた何かを言葉が疼かせる。過ぎてゆく時間と年月とどこかに取り残されたままの自分が、揺さぶられた心にいた。

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萱草に寄す


萱草に寄す (愛蔵版詩集シリーズ)

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『恋する世界文学』


佐藤真由美著『恋する世界文学』 (集英社文庫)

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 正直恋に縁遠くとも、世界文学には惹かれている。読み継がれる物語には、時代が変わろうとも逃れられない、生きることに纏わるあらゆることが込められていたと感じ入る。同じことの繰り返しになろうとも、世間知らずにも、愚かにも、打算的にも、できることならば自分のまま、あるがままに生きたいと思う心がある。愛しても、愛さなくても苦しくとも、愛する心がある。今と違う何かを夢見ながら、今日と同じ明日が続くと信じている心がある。どう生きようが、やがて死ぬ、普遍的な生涯がある。「ただ生きたい」そう願うことを読みながら思い出した。

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恋する世界文学 (集英社文庫)


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『西比利亜の印象』


ミハイール・プリーシヴィン著『西比利亜の印象』 岡田和也訳 (未知谷)

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 土地に根付く逸話が生まれ、語り継がれ、残る過程を少し垣間見たような心地になった。旅をする眼差しは、どこか寓話のような語り口で、それでいて土地の懐へ入るべく生活を見つめ、始終心惹きつける。旅に見た聖書の風景にも終わりがあり、追放され流離うアダムとイヴのような男女にも移民の生活がある。諸民族の歴史、先住者と原住の遊牧民と移民の関係、ロシア人に欠かせないユーモア、客人に振る舞われる羊のエピソードも鮮烈な印象を残した。普段使う言葉との違いに眩むほど奥深さや美しさを思う訳文も、まるごとプリーシヴィンの世界に思えた。

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西比利亜の印象


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『存在の不幸』


ジャン・グルニエ著『存在の不幸』 大久保敏彦訳 (国文社)

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 問い、思考する姿勢の在り方に、始終惹きつけられた。善と悪、神、宗教、人の存在を巡る様々な思考の中に、グルニエ自身の生き方が感じられる。多岐に渡る様々な論説を検討しながら、理論と感情の狭間で真理への愛を探し求めようとしている。とりわけドストエフスキー作品やカミュ作品についての言及箇所に熱を感じた。思考を重ね、例を挙げ、深みを持った着地点へと導きながらも、“われわれは、ここまできても、なんら前進したわけではない”と知ったつもりになる自分を戒め、本書に収まりきれないものとして問い続ける。省察を促す姿勢が印象的。

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存在の不幸 (1983年)

『険しい道 モンゴメリ自叙伝』


モンゴメリ著『険しい道 モンゴメリ自叙伝』 山口昌子訳 (篠崎書林)

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 今の自分が在る。その人生の道程を肯定するように、同じように歩む者たちを励ますようにある文章が心強く思えた。作家修行の日々は険しく、続く単調な戦い。それでも人生の指針との出会いも、大自然を愛し生き生きと空想を広げる様も、すべてが永遠に思えた子ども時代の忘れ難い痛みも、悲しみも、死を知ることも、すべては書く行為そのものに向かい、育まれてゆく。疑念と不信を切り抜け、書くことを愛し、恐れずに導かれる方へ向かう。モンゴメリの人生と作品の背景を知るほどに、作品の魅力の広がりを思う。苦しさを歩き抜いた言葉の深さを思う。

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険しい道―モンゴメリ自叙伝 (New Montgomery Books 20)


険しい道―モンゴメリ自伝


『孤島』


ジャン・グルニエ著『孤島』 井上究一郎訳 (ちくま学芸文庫)

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 曖昧ながら何かにふれたような心地になって、光を思いながら読み終えた。何かにふれた瞬間を自己の内部で感じながらも、それは言葉にした途端にどこか虚しく空回りし、どうかすると自分自身の孤独をいっそう深めてしまいそうになる。それでも、グルニエの言葉は曖昧なまま、読み手に解釈を委ねるように、感じ取った瞬間のかけがえのなさと瞬間の光を、そのまま抱かせてくれる。人間の感情の尺度だけでは済まないこと、自己を過信せず、疑うことの必要や、自己を知る精神の在り方にふれる。生に影は多くとも、生の始まりは美しいと信じる余地を思う。

*      *


孤島 (ちくま学芸文庫)

『知と愛』


ヘルマン・ヘッセ著『知と愛』 高橋健二訳 (新潮文庫)

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 自分自身を知り、自分自身となる。出会い、求め合い、反撥しながらも慕い、放浪の果てに、知と愛がとけ合うように出会う。辿り着くべきところに、ゴルトムントとナルチス、それぞれの物語と友情の完成を見たとき、美しさにふれた気がした。内部の精神に訴えてきた母なるものを巡り、ゴルトムントが豊かにも困難にも経験を重ね、成熟へと向かう様は、誰でもない自分自身を生きる姿だった。愛するにも死ぬにも母が必要だという思いに至るまでの遍歴、自由な相互関係に至る者同士の対話に、生きたことに対する肯定を感じる。在るべき生の美しさを思う。

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知と愛 (新潮文庫)

『エジプトだより』


ジャン・グルニエ著『エジプトだより』 大久保敏彦・松本真一郎・森本謙子訳 (国文社)

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 異国で感じた戸惑いを隠さず、それでいてその生き方を非難しない。歴史や宗教、東洋と西洋を隔てる深淵や価値、ただそこに広がる風景、人々を見つめる視線の人間味に幾度も唸った。自分の置かれた条件を出る難しさや、旅行者がその地に同化できないことを心得た上で、答えの出なかったことや見つからなかったことを、別の場所でまた見つけるべく求め、問い続ける姿勢がある。過去も今もその先も見据えた言葉を端々に感じ、終わらない思惟が生まれ、展開してゆくのを垣間見た心地になった。諦めず生きてゆく心はこう在り、人の思いを揺さぶるのだと。

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エジプトだより


『Xの回想』


ジャン・グルニエ著『Xの回想』 大久保敏彦訳 (国文社)

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 回想に期待される語りから逃れながらも、滲み出る人物像に自然と魅せられていた。孤独に生きることを好みながら、人と関わらずにはいられず、自分自身のために生きる力がないために、不本意ながら他人のために生きてしまう。毎朝仕事をくれる花を思いやり、様々なことを億劫に思いながら触れたいと巡らせ、無意味なことに心惹かれ、他のことに心奪われては、結局何もできない。思いがけず自分を言い当てられたような心地にもなりつつ、単調で虚しく思えた失われた時間の中に、満ち足りた生活があったと教えられた心地になる。残る人生の魅力もまた。

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Xの回想


『人はすべて死す』


ボーヴォワール著『人はすべて死す』 上下巻 川口篤・田中敬一訳 (岩波文庫)

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<上>
 抱えた状況や立場は違えども、生きながら、既に死んでいるように感じる者同士が出会い、語らう人生の物語に、読むほどに引き込まれてゆく。何章も続く長いプロローグ、それに続く不死の男の生きてきた歴史、付き纏う自分の存在を巡る虚しさ。死すべき運命の人々と、自由ながら永遠にただ一人の者。何百年と同じ空を見ることに疲れ、望み得るすべてを手にしても、為したことは無に等しい。ただそれだけだと示される一生も切なく響いた。苦悩も百年経てば、誰も知らない。生きることはいつの日も苦しい。長く続くならば尚更。導かれる結末が気になる。

<下>
 答えのない問いに挑む熱き思いと、書き尽くせない心を感じた。説明することに疲れ、生きることに距離を置く語りに、それでもなお生の煌めきにふれ、揺れ動き、人間らしく在ろうとする思いが滲むほどに、幾度も切なくまぶたが熱くなった。生者は死んだ過去から現在をつくる。たとえ忘れられても、結局死にゆくとしても、今日を生きようとする。終わりのない生との対比の中で、戦う生は鮮烈だ。繰り返されてゆく生の在処を垣間見た心地になる。自分の置かれた生と投げ出された問いを前に、はっと現実に戻される。受け入れ、生きる、果てのなさを思う。

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人はすべて死す 上巻 (岩波文庫 赤 567-1)


人はすべて死す 下巻 (岩波文庫 赤 567-2)


『信号手』


チャールズ・ディケンズ著『信号手』 岡本綺堂訳 (青空文庫)

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 悲しみがいつまでも震えるように残る。言葉も仕草も、思いとは裏腹に、受け取り手や状況によって、恐怖にも悲痛にも救いにもなり得ることを改めて思う。何気なくかけた声が、どう相手に届くか。切羽詰まれば尚更、その声がどう心に影響するか。この物語に限らず、想像を巡らす必要をはっと思わせた。寂寥たる駅の信号手に限らず、誰かの心の僅かさえ、理解することは難しい。人が抱く恐怖を、人が抱く悲しみを、心の機微を、どうかすると巡らすことを忘れがちな自分の日常を悔い、恥じ入るように、言葉の重さを感じながら、物語の結末に深く沈んだ。

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世界怪談名作集 06 信号手


『旅のなかの旅』


山田稔著『旅のなかの旅』 (白水Uブックス)

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 旅は非日常だけではなかった。ここには旅の中の日常が感じられた。様々な人種、様々な階層の入り混じる集団の中に一人入って旅をする面白さ。出会う良くも悪くも個性的な面々、立ち会う歴史の痕跡、その立場を巡る微妙な問題、絶えることのない言葉の苦労。不便さも日常の一部として受け入れ、苛立たず、のんびり笑っている人々の姿は、やはり惹かれる。通り過ぎるだけと決めていた場所に、何も知らぬまま魅せられてしまう心の動きがある。そこにあるべきものがあり、そこにあるべくして自分が佇んでいると思える時は、どんな鮮烈より深いと思えた。

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旅のなかの旅 (白水uブックス―エッセイの小径)

『ハバーロフスク断想 承前雪とインク』


岡田和也著『ハバーロフスク断想 承前雪とインク』 (未知谷)

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 文字として、単語として、言葉として、それらが意味するところとして、大切なことを呼び起こしてくれるような一冊に感じた。去り際に放たれる「有り難う」、祝日や新年の「お愛でとう」など。異国の地だからこその心掛けは、何気ない日常生活での束の間の人との関わりにおいて忘れそうになる、在るべき心に思えた。頑なな心も和らげる一言。そうして漢字でそれらの言葉を表すときの温度にはっとする。有難いことであり、愛があった。引き出される露西亜の魅力はもちろん、それを語る著者の言葉に対する深き思い、それを培う書物の数々に魅了された。

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ハバーロフスク断想 承前雪とインク

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過去関連記事
『雪とインク アムールの風に吹かれて1989~2011』


『夏の夜の10時半』


マルグリット・デュラス著『夏の夜の10時半』 田中倫郎訳 (河出文庫)

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 気づきながらも避けてきたことに呼応するように、倦怠が立ち込める。そもそものところ、これは終わりに向かうための旅だったのだと、物語の終わりとともに、幾重にも終わりを意識する頃には、始終立ち込めていた倦怠に、読者の私も呑まれていたと気づかされた。マリア、その夫ピエール、その恋人クレール。三角関係のままに子を連れ、旅をするマリアが酒を飲む理由はその視線が痛いほど語る。心に入り込む、殺人者ロドリゴ・パエストラという魅惑の響き。言葉によらない邂逅が、彼女の心情を深くする。自ら終わりを決める、その姿を巡らせ、震えた。

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夏の夜の10時半 (河出文庫)


スタイルズ荘の怪事件


アガサ・クリスティ著『スタイルズ荘の怪事件』 能島武文訳 (グーテンベルク21)

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 遡ってみれば、腑に落ちる。そこに至るまでの、確かなものを導いてゆく展開に引き込まれた。奇怪に思えるポアロの行動も彼のヒントも、ピタリと合う事件の最後の極め手が見つかるまで、自分の立場を心得てのものであると知る頃には、もうすっかり<わたし>と同じく物語の中にいることに気づく。人と人との関係性やそこにある心、気位の高さ、それぞれに抱いた誤解をも考え、初めに抱いた疑いを、移りゆくほどに一つ一つ確かにするすべを、人知れず追ってゆく。人間模様を知るほどに、人の幸福を巡らせば、もうポアロに唸るしかない確かな心を思う。


スタイルズ荘の怪事件 名探偵ポワロ


郊外へ


堀江敏幸著『郊外へ』 (白水Uブックス)

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 導かれるままに思いを巡らせ、身をまかせ、流されてゆく心地良さに浸った。異国の郊外について巡らせ、書物の助けによってその隠れた秘密を探る散策のすべては、虚構かもしれない。それでも異国の中心でもなく、周縁でもなく、死角となる場所で、人知れずそこに在る物語は、確かなものとして感じられた。虚構が導く虚構は、何処か真実に近い気がする。何処へ行くのかも知れず、時にあてどなく流れに身をまかせる。心もとなくも、辿り着くべきところに、自然と心は在るのだと感じられた。人が生き、暮らしてゆく反復のただならなさに気づく時もまた。

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郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

『私自身のための優しい回想』


フランソワーズ・サガン著『私自身のための優しい回想』 朝吹三吉訳 (新潮文庫)

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 人は生き、やがて死にゆくものだとわかっていながらも、その終わりを巡らすとき、過去の重みと背負った哀しさ、じわじわと広がる虚しさ、どうすることもできない無力感が幾度も過った。友人たちを思う回想には優しさと愛があった。共に過ごした時間と離れていた時間。記憶にある限りを手繰り寄せる言葉には、積み重ねられた歳月の分だけ深みがあり、同時に著者自身の姿を強く感じさせた。若い頃の鮮烈な読書、文学への誘い、そうして過ち。人々が生きた時間が確かに在った。その事実に心打たれながら、誰でもない自分のために今を生きようと思った。

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私自身のための優しい回想 (新潮文庫)